2006年05月12日
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功名が辻〈4〉



功名が辻〈4〉功名が辻〈4〉

第四巻は、最終巻であり、関ヶ原の戦い、そして土佐への栄転と物語はつづくが、個人的には、この第四章が一番おもしろかったように思う。なぜなら、これまでの歴史はかなりの部分すでに知っていてその流れを山内一豊の視点でなぞっていく感じであったが、関ヶ原後の掛川から土佐への転封その後については本書を読むまではほとんど知らなかったからである。やはり知らないことを知るのは面白い。

関ヶ原の戦いで、徳川についた山内一豊。
その後の論功行賞にて家康は家臣に

山内対馬守一豊のことだが、かれはいま掛川六万石を食んでいる。これに土佐一国二十余万石を与えるように

と言い含め、家臣(特に本多正信)から不審がられたが、

対馬守は、小山での前夜、その妻からとどいた書状を開封せずにわしにさしだし、当時動揺しつづけていた客将の心をわがほう加担にふみきらせ、かつ小山の軍議では、わしに城を進呈することを申し入れ、そのため東海道に居城をもつ諸将はあらそって城を空にしてわがほうにつき、この一事で諸将の気持ちが固まった。あの瞬間でもはや勝敗は決したといっていい。その功、抜群というか、とにかく関ヶ原を勝利にみちびき、わが家を興すいしずえをきずいてくれた。土佐一国はむしろ安い

と言わしめ、土佐24万石の太守になることになった。

土佐には「一領具足」という人たちがいた。
彼らは、特殊な武士で、知行地は持たずに田畑を自作し、免租という特権を持っていた。
長曽我部軍団の中核はこの手の武士だったようだ。
山内一豊が土佐に来た頃の一領具足はおよそ1万人。
土佐については、「竜馬がゆく」など幕末を描いた書物でよく読んでいたがこの「一領具足」と山内一豊との争いがのちの土佐独特の武士社会を作っていくことになるのを知る。

長曽我部家の幹部だったものは、他の大名に召抱えられて、山内家ではほとんど召抱えなかった。
徳川旗本、紀州徳川、細川家、藤堂家、堀田家、伊達家、森家などなど100人以上が100石以上で召抱えられたようだ。この人たちがうまく召抱えれなかったのが失敗だったと私は思う。

山内一豊は、1605年に60歳で死去(妻の千代は当時48歳)。
千代は、1617年に60歳で死去。



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